all about my mother(母の事)

母親が死亡するまでの日記、回想など書いてます。


7/1

 夜中に父親に起こされた

父「風呂に入ったら、寒い、寒いって言い出して」

 下に降りると、母親が震えていた、寒い、寒いとリピートしていた、表情がうつろで、生気がなかった、父親は裸の母に服を着させた

父「圭一を起こせ」

 取り乱していた、僕は兄を起こしに行った

僕「急に具合がわるくなって」

 兄は起きて、父と一緒に母を病院に連れていった、真夜中だった。

 夜が開けて、母はいつの間にか帰って来て、ソファに寝ていた、いつも寄り小さく、頼り無い感じがした。

 母は、もう時間がなくなっている事に気付いたのかもしれなかった。

 駄目だと思うまで人間は負けない、だけど、諦めた瞬間、死は襲って来る、物凄い勢いで

 母は、その日、諦めたのかも知れない。

7/2

 朝、母親が僕の部屋のドアをあけて、そしてばたりと座り込む

 「どうしたん??」

 と尋ねると

 「腹減った、腹減った、腹減った」

 とひたすらリピート、様子も変だ、そのまま廊下に倒れてひたすらリピート、僕は下に降りて、父親を呼ぶ

 「ちょっと来て!」

 父親がかけつけて、母親を抱きかかえて、ペットへ戻す

 「じょうじ、なんか作ってくれ」

 と言うので、キッチンに行ってエビ入りおかゆを作る、できたてを持って行くと、ゆっくりと食し始める、安心はしたもの、父親は

 「こりゃあ、入院じゃあな」

 と言って病院に電話をかける、エビ入りおかゆも、あまり食べれなかった

 もう母親の顔がいつもと違う、夢の中にいる様な、ぼんやりとした表情

 思考もあまりはっきりしない様子

母「入院するん?」

父「ここじゃ、なおらんからなあ、行くしかねえなあ」

 母親はまるで自分の事ではない様なな表情でそれを聞いている

父「じょうじ、圭一を起こして来てくれ」

 僕は兄を起こしに行った

僕「ごめん、また様子が悪くなったから」

 兄は目ぼけてはいたがその後は冷静に行動した、父と兄は入院の準備を始めた、僕は、母親の絶望的な表情を見るのが怖かった、そんな残酷なものは見たくないだろう、もしかしたら、あの時、母親は僕の顔を見たがっていたのかもしれない、もう戻る事が出来ないのを知って、最後の日常を見たかったのかもしれない。

 僕は、掃除や洗濯をこなしていた、一時間程して、準備が整って、さあ行こうという雰囲気の中、母親は、最後の抵抗の様にだだをこねた、子供の様な口調だった

母「あれが飲みたい、じょーくん、あれ作って」

 僕は弾かれたコマの様にあれを作った、あれというのは、グレープフルーツをジューサーにかけて濾して作る、天然フルーツジュースの事だ、今僕がしてあげられる愛情表現は、情けない事にこれしかなかった、たかだかジュースが、親子の絆を繋いでいた、それは世界一濃いジュースだと思う、俺は思うぞ。

 畑でキュウリを取って来てる内に、母親を載せた車は出て行った、暑い夏の朝の出来事だった。

7/3

 病院に映子さんが来てくれて、看護をしてくれていた、母は体中がパンパンにはれていた、指など幼児の指の様だった、映子さんは、母の身体をさすったり、話し掛けたりして、懸命な看護をしてくれた、はたして、僕が兄が倒れた時に同じ事が出来るだろうかと思った、出来ないと思う、それは女性としての強さかもしれないし、僕の未熟さかもしれないし、とにかく、排泄物の世話まで彼女は笑顔でやり続けた、僕は彼女を尊敬せざるえなかった。

 母親は、意識は有るみたいだが、もう自分の力では動けなくなっていた、寝返りをうつのも映子さんの手を貸りなければ不可能だった、負けず嫌いの性格の母親が自分の無力さをしっかりとした意識で味わっていると思うと痛々しい気持ちになる。

 僕と映子さんは、担当医に呼び出された、担当医はしっかりとした体躯の先生で、僕らの目を見ながらしっかりとしゃべり出した

「血小板が足りなくなってます、今手に入ったのでこれから検査して投入します、血小板がないと内臓からの出血が止まらなくなります、普通の人でもそうなったら危険なのです、血小板を投入すると一時的には良くなりますが、内臓に転移した癌細胞がこれから増殖します、患者さんの場合、肝臓なので痛みはまだないですが、これから転移した癌細胞が痛みを誘発します、そうなるとモルヒネ投入も考えられます、モルヒネを投入したら、もう家には帰れないと思っておいて下さい、もう、これからは一日単位で状況が変化します、もって、一週間でしょう、なるべく多くの方と会っておいて下さい」

「本人の自覚はあるのですか?」

「本人の意識はまだはっきりしています、でもこれからモルヒネを投入するとそれもなくなります、患者さんはほんと元気のいい方で、わたしもよくしてもらいました、こんな元気のない姿で再入院してこられて、とても残念です。」

 先生はおそらく何百回とくり返した口調で言われた、でも、そこには単なる職業を超えた、なにか、魂の繋がりの様な、そんなものを感じた。

 母親が入院しているのは産婦人科の病棟、隣ではおめでたの話で家族が騒いでる、そんな中、癌に犯された患者がいるのだ、想像して欲しい、意識だけははっきりしている彼女にとっては、拷問に近い状況ではないのか!どうしようもない事だけど。 

7/4

 映子さんは病棟に泊まり、一晩中母を看護した、朝は、兄が病院に行き、午後、僕が行く、母親はもう排泄が出来ないので、尿に管を通されていた、映子さんが

「もう大便は出ないみたい」

 と悲しく言った、母親は酸素吸入をしていて、昨日よりは元気ではあった、だけど、もう喋るのが精一杯といった感じだ、映子さんが仮眠をとるので僕が変わりに看護した、母親の身体は痩せてしまって、汗っぽくって、どこを触っても、痛い!と言った、水を飲む事だけでも大騒ぎになる、母親は動かない自分の身体にストレスをぶつけていると思われた。

 もう、自分で排泄ができないので、その時には看護婦さんが専用の簡易トイレを持って来る事になった、男では絶対に出来ない事を彼女達はやっている、僕は部屋を出ているしか方法がなかった。

7/5

 大阪のおじさんが深夜にやって来て、夜明けに父親と一緒に家に着いた、僕は眠っていたけど目が覚めてしまった、寝不足のまま家の用事をこなす、おじさんと娘さんは10時頃に目をさまし、再び病院へと行った、父親は熟睡していて目を覚まさない。

 僕が病院に着いたのはお昼、病室を個室にしてもらっていた、母親は熱も下がり、腫れもひいてきたのだが、いけない、痙攣を起こしている、右手は数分置きに引きつり、左手はこめかみのあたりに自然に移動し、足も、本人の意思とは関係無く動く様だ、みんなでさすりあっていたが、果たして僕はさする事で痙攣が直るとは思えなかった、が、ただ、さするしかなかった、もう、そうするしかなかった。

 ただ、痙攣に関しては、痛みは無いというので安心した。

 母親はか細い声で

「もう家に帰る、帰る」

 と言っていた、帰れるわけがないのに、おばさん達はタフに冷静に看護をこなしていた、僕は尊敬するしかなかった。

 忙しくて何も診てくれない主治医さんが唐突に現れて、心配ないです、と言って去って行った、僕は、お医者さんも、もう何がどうなのか分からないから、とりあえず

「心配ないです」

 と言ったのではないかと邪推した、主治医の先生は、救急の手術が頻繁に起こる為、いつどこにいるか分からないのだ、そんなのでいいのだろうか?うちの母親はもう見放されているのではないか?

 そんな気分にもなる一日だった。

7/6

 母親がコープで注文した品を冷蔵庫に入れていたら悲しくなって来た、悲しいというか、憤りなのい怒りみたいなものが湧いてしまう

「これ美味しかったから、じょーくんも食べられえ」

 といって注文した、くずき豆腐を見ていたら、その悲しみと怒りの混ざった、どうしようもない、どこにぶつけていいか分からない感情が溢れてしまった、母親が元気な時に注文した、この食料を母親は食べられない、その事実に打ちのめされたのかも知れない。

 母親が注文していたハーブの香りのペンダントを持って病院に行った、ちょうどCT検査が終わったとこで、先生の説明を受ける、尿の分解が出来なくなって、それが全身を廻り、脳に来ている、痙攣の原因はそれで、しだいに意識もなくなっていく、痙攣がひどくなった場合はモルヒネを投与する、そうすると、もうずっと眠った状態になり、そのまま心臓停止まで続く。

 ようするに、母親が生きて、意識があるのはもう数日も無いという事だ、モルヒネを打った時点で、母親は事実上死亡だ、意識が無いのに心臓だけ動いていてもしかたない、一抹の希望として、そこかに回復するかもしれないという説もあるが、今回は無理だと思う。

 ただ、母親に痛みの意識が無いのが救いだ、痛みなく行かせてあげたい。

 それで、母親にグレープフルーツジュースを持っていくと、母の意識はまだあった、「飲みたい」と言い、「美味しい」とも言った、これが最後の意思伝達にならない様に願うのみだ、母親の痙攣は昨日ほどひどくはないが、痙攣している時間はより長くなった。

 おばさん二人の看護にはまいりましたと言うしかない、僕は何も出来ないのに、彼女達は、あくまでも前向きに、優しく、明るく看護をしている、男共が暗く腕組をして、うーんって唸っているのに、彼女達は明るく、そして冷静に正しい事をしている、僕は尊敬せざるえなかった。

 ただ、父親が動揺したのか、様子がおかしかった、カーテンは閉め切るし、直ると信じて購入して健康食品を乱食するし、落ち着かずウロウロして、いつもの父ではなかった、そこには、裸の、弱い、男の子になった父がいた、僕は心配した。

 僕が持っていったハーブのペンダント、母親はちゃんと嗅いで、ニオイがする、と聴きとれない声で言った、僕は、僕は、ちよっと言葉に出来ない気持ちになった、これが最後、これが最後、そんな強迫観念に押されながらも、でも、僕は僕ができる事をやったから、それが届いているなら、これが最後でも、誇れるのではないか、という考えにもなった。

 いつ、どうなるか、もう、誰にも分からない状態になってしまった、母親の意識がどこまではっきりしているまかさえも分からない、母親は僕の作ったジュースを飲んで美味しいと言った、それだけを誇りたい、世界中どっから見ても分かるくらいの輝きにしたい、したいんだよ。

7/7

 映子さんの電話に起こされる

 「痙攣がひどくて、わたしらには判断出来ないから」

 父親を起こして飛んで出て行く、父は昨日も数時間しか寝ていないはずだ、僕は洗濯物を干してから病院に行った、僕が病院に着いた時にはもう全てが終わっていた、母親は静かに眠っている、モルヒネが投与されたのだ、たまに聞き取れないくらいの声で「あっ」とか呟いている、意識が朦朧として、寝ているのか起きているまかも分からない感じだろう、もう、人間としてコミニケーションは取れないという事だ、実質半分死んでしまっていると言う事だ。

 母親には退院した時に、「もって3ヶ月」という事を告げなかった、その方がいいだろうと判断したのだけど、隠しながら一緒に生活するのは辛かったし、こういう事態になって、本人は何が何だか分からないまま、全てが曖昧なまま死に近付いていく、残酷な事だ、それが果たして正しいのかは分からない、誰が悪い訳でもない、これでよかったのか?という釈然としない疑問が残る、根拠の無い罪悪感が残る、それは僕の人生に一生付きまとうだろう、果たして本当にこれで良かったのか?

 これからは、モルヒネが切れるとまた痙攣が始まり、ひどくなると投与し、序々に体力が消耗していく、それで延命するしかないという、担当医が、これが最善でしょうという、最善なのかどうか分からないけど、もう、そうするしかない、悲しい事だ。

 おばさんの話によると、母親は昨夜、意識がしっかりしている時に、兄の名前を呼んだそうだ、最後の言葉が自分の名前でよかった、あまりうまくいってない家族間系だったけど、最後のつながりが名前でよかった。

 帰って家の掃除をしていると、前の家のおばさんがやって来て、母親の様子を尋ねる、僕は冷静に状況を話した、おばさんは目からボロボロ涙を流した、こんな時に一緒に泣いてあげられない自分がくやしかった、これだけめまぐるしく状況が変化すると、もう、感情が麻痺しているのかも知れない。

 それらしてもおばさん達の看護には、もう感動してしまった、どんどん衰弱していく自分達の姉を献身的に看る、決して落胆せず、あくまでも前向きに明るい態度で、素晴らしい。僕にはとうてい出来ない、例えば母親が無意識に放屁した、すると

「まあ、公衆の面前で、失礼な人」

 などと言って場の気まずさ、状況の厳しさを一瞬緩和してくれる、対して、男連中は腕を組んで暗い顔で黙っているだけだ、父などどうしてもカーテンを閉めたいらしく、「母親が明るいとこを好む人だったから開けておこう」というおばさんの意見も却下され、父はカーテンを閉め続けた、部屋が陰湿に雰囲気になるので僕は嫌だった。

 母親が使っていたもの、例えば茶わんとか、それがもう必要なくなるのだと思うと悲しくなった、それが愛というものだろうか、少し昔、僕には好きな人がいて、彼女はもう会わないといって、2度と会えなくなった、僕にとって彼女はいなくなった、つまり死と同じ状況になった、そんな時、その喪失感が僕を死に導いた、自殺しようと思ったのだ、それも果たして愛なのか?

 母親にはしてあげられる事は全部したと僕は思っている、何が愛なのかなんて考えないでいい、やる事はやった、そとて最善の方法で送ってあげる、母親がこの世からいなくなるのは、もう分かっていた、2月の退院の時の号泣、泣くのはあれで最後にしよう、感情に流されず、冷静に誇りをもって母親を送って行こうと思う、それが男の仕事だから。

7/9

 母親は尿を分解できなくなった、体はパンパンに腫れてしまった、熱が出て、喉に痰がたまるのか、声をあげる様になってしまった、それでも僕は回復すると信じていた、回復といってももう家に帰れないのはいくら馬鹿の僕でも分かる、ただ、一秒でも長く延命させたかった、母親は昏睡状態に入り、いつなにが起こってもおかしくなかった、だけど、熱は安定し、しばらくこの状態が続くと思われた、僕はそう信じていたし、人間として息子として信じたかった。

7/10

 朝、6時起床、コンビニでサンドウィッチを食べながら病院へ到着、僕は赤いシャツを着て、ブコウスキーのペーパーバックを持って病室に行った、すべては昨日のままだった、熱も安定していた、僕はすっかり安心していた、このまましばらく平行状態が続くとさえ思った。

 ところでこの病院には塩見さんという看護婦さんがいた、

 「塩見さーん」

 と声がするので

 「ハイ」

 といいながら出てみると

 「ごめん、看護婦の塩見さんだった」

 と言われて、勘違いに気付いたりしていた、その塩見さんが9時過ぎに来て、母親に注射をして、そしていつも右を向いている、頭をまん中に向けた、僕はいいのかなと思ったもの、以前みたいに、嫌そうな表情を母親が見せないので、おばさんとも相談してそのままにしておく事にした。

 顔がまん中になってしばらく、母親はいびきをかかなくなった、安眠しているのかと安心していたら、心電図の機械を押してドタドタと看護婦がやって来て、いきなり張り詰めた空気になった

「先生は!」

 と父が聞くが

「まだです」

 と答える、その間にも母親の顔色は悪くなって行く、おばさんと兄が母親の手をさすりはじめる

「こんな時に、先生が来ないのは問題じゃなあ」

 と父が最大限の苦味をつぶした文句を言う、実際そうだからやりきれない

「ああ、どんどん顔色が悪くなってる」

 と僕、どうする事もできないもどかしさ、いじましさ、主治医が部屋に来る1分も前に、母親の心臓は停止していた、主治医がやっと駆け付け

「9時40分です、よろしいですね」

 と事務的に言う

「ありがとうございます」

 と父、全てがあっと云う間に終わった、母は死んだ、死んだんだ、誰もが鼻水をすすり、母親を触った、母の体にはまだあたたかさが残っていた、最後のあたたかさを、贅沢で貴重なあたたかさを僕は確かに味わった。

 母親の死因解剖が行われ、僕はおぞましてほどまずいコーヒーを飲みながら待っていた、その時読んでいたブコウスキーもおぞましいほど下らなくて最高の小説だった。

 主治医に案内されて、死の原因を説明される、その時はじめて知ったのだけど、母親は最初の手術の時から、長くないのはわかっていたのだ、よくぞここまでもっていたと感心するくらいの大往生だった、母は最後まで見事だった、僕の母だから自慢したい、よくぞここまで。

 だって、母親の肝臓はすっかり膿んで、触ると膿みがドローっと出たそうだ、ここまでのケースは珍しいと、主治医も言っていた、死因は肝不全だった。

 母親と一緒に僕は家に帰って来た、母は死んでも首を曲げたままだった、家の中は一転、親戚さんたちと葬式の段取りで慌ただしくなった。

 母親は、死んでもなお、僕にブレゼントを残してくれていた、棺の中に入れる物を選ぶ係り、それが僕の誇り高い仕事であった、母親の気にいってた財布は金属がついているので却下、金属とガラスは駄目なのた、なにがあるだろう?、僕はそうやって母親の使っていた、もう二度と使わない品物を探しているうちに涙が流れた、自分でも制御できない涙が流れた、思い出は世界で一番残酷で甘い食べ物だろう、父に相談して、母に似合っていた帽子や、いつも持っていたバッグ、大好物のフルーツ、趣味のお花などがよいと決定した。

 明日、お葬式、明後日、告別式となった、何をしたらいいのかわからないけど、できる限りの事はしたいと思う。

 おばさん達と寿司を食べながら「塩見さんっていう看護婦さんがなあ」とか後日談を楽しむ、僕は一瞬その看護婦さんを非難してしまったが、それが原因かどうかも疑問だし、なにより、それまでも、普通なら死んでいるはずの状態が、ここまで持ったのが奇跡なのだとその時、あらためて思った、看護婦さんには不快な思いをさせてしまったかも知れないけど、ただ、そういった生死の関わる問題に、責任問題が曖昧になっているのはどうかと、ちよっと思ったりするけど、いいです、ここまで生きたなら、それでいいじゃない、誰が悪いなんて、もう問題にしないのが一番いい。

 お母さん、僕は生まれて来てよかったです、生んでくれてありがとう、これからは、そちらで楽しくくらして下さい、ぼくも、もう心配かけない様、がんばのます、本当にいままで、育ててくれて、愛してくれて、あれも、これも、なにもかにも、全て、ありがとう、ありがとう!

7/11

 母はもういない、ただ母親の葬儀が行われる、今日はお通夜だった、母親の兄弟が集まって葬儀を手伝う事になっている、母親はとても我の強い人で、僕は反目しあっていたが、退院後はすっかりおとなしい可愛い人にかわっていた、今まで憎みあっていた心がお互い歩み寄ったのだ、素晴らしい事だ。

 母親の遺影の写真が届いた、これがまさに陽気でいつも行動している母の笑顔の写真だった、

「じょーくん、お母さんの写真どう?」

「泣かせますね」

 まさにその通りだった。

 葬儀屋と親戚の間で、醜い話し合いが行われて少し悲しくなった、大阪のおじさんは、母の兄弟の中では最も母に似ていて我が強い人だ、おじさんは仕切りたがり、自分の考えに絶対的な自信を持ち、いつもビリビリして、僕をつついて

「おめえ、あれしたんか、せなかんがな!」

 と言って、場の空気を悪くする、一方、マイペースな父親は、言葉少く指示するのだが、あまり詳しく説明しないので当惑してしまう、どちらがいいのか分からないが、僕はおじさんには正直がっかりした、職場の空気を悪化させる中間監理の典型的な例だ、僕が母親を嫌ってた要素だ、その要素は手術した医者がそこまで配慮した訳ではないが、すっかり取り除かれた、つまり、自分が一番偉い、自分がいないと駄目になる!という傲慢さだ、それがぼくらの家族関係の悪化の要因だった、だけど、母親は手術で体力を失い、人並みの事は出来なくなった、はじめて、弱者の立場に立たされた彼女は、自分という人間はどうなんだという哲学に目覚めた、というのはおおげさだが、そんな立場になり自分を反省したのは明らかだ、母親が

「子供の時にほったらかしだったから、今は返す時」

 と言って年金から旅行費をくれた時は、母親のあまりの変ぼうに驚いたが、同時に嬉しかった、心が通う接点が見つかったのだ、それが母の命を奪う病気のおかげだったのが、また因果を感じるのだが。

 通夜は、父親の仕切りが悪く、陰気な雰囲気になっていた、おじさんはピリピリして、僕をつついて全く逆効果な事をいろいろ指示して、場の空気をさらに悪化させていた、僕はストレスで場を離れた。

 台所でおばさん達と話をして、結局、冷静な彼女たちの意見を実行した、帰りたい人は帰ってもらい、残った人で楽しくやろうと、で、すっきりした、あーすっきりした、友達のさらいくんも来てくれた、僕の近所で唯一の友達だ、ありがたかった、ただ、おばさんに「すごい髪型の人」「おさげの友達」「見に行こうか」などと噂されていた。

 酒を持ち込んで宴会が始まった様なので、僕は適当に指示して、曖昧に自室に消えた、いろんな人の意見と思惑が交差する、葬式は疲れる。


「父と話す」

 葬式の後、父と話しをよくした、母親が手術をした時、親戚を呼ばなかった理由なども聞いた、今回葬式を経験して、その理由が痛いほどわかったし、父があくまで冷静に物事を見守るタイプだとよっく分かった。

 父の人生は買ったか負けたでは決められないにせよ、それなりにいい結果を出している、そこには氷みたいに冷たい冷静さがあるにせよ、父は父の好きな事をして生きて、母は母の好きな事をして生きた。

 母は我の強い人で、自分の思う通りにならないと、強引に力わざで押し通すタイプだった、あまりい性格とはいえなかった、だけど、そんな母の強情さが、わが一家を支えていたのは確かで、母がいつまでも働いていたおかげでぼくらは生きてこれた、母はパートで働き、夜帰ってから夕飯を作り、夜遅くまで家事をした、子供の僕には母は理解出来なかった、ただ怖くて、さからうと怒られる、とにかく命令をきいてないといけない、そんな存在だった、当然、愛情なんてなかった。

 それは母なりのやり方だったのかも知れない、だけどぼくら一家は、序々に歪みはじめていた、父は家に帰らず、子供との交流なし、母はいつもピリピリして愛情を受ける余裕なし、比較的緩やかな時代に育った兄は真直ぐに成長していったが、僕はねじれてしまった、想像の世界や、物語の世界に引きこもる様になった、家では無口で、そのうっぷんを学校ではらしていた、そのねじれがしだいに「僕は生きていちゃいけないの」という強迫観念に変化していった、僕は内向的で、友達も少ないまま大学に入り、この家を出た。

 もう和解できる事などないと思っていた、僕と母だが、母が病気になり、僕を頼った時、僕は母に愛情を注いだ、生まれて来てよかったと思った、母の血筋は強欲なのだ、それは本人にはどうしようもない事だ、僕は母の為にねじれてしまった、だけど、ねじれた青春を送った者は、真直ぐに育った苦労しらずの人の何倍も、優しさとか、人を愛する力が持てる、社会構造の矛盾にも気付く事ができる、そうならないと見えない部分もあるんだ。

 いろんな意味で母にはお世話になった、母を愛しているし、母を憎んでいる、それが僕だ。  父が母を利用したとは言わない、父はうまくやった、ただ母はそんな父に、もっともっと愛を求めていたのだろう、それは痛いほど分かる、それは傲慢なのだ、愛は求めるものではない、なんとなーくうまく行くものなのだ、父と母はその時点で狂った、母は父の事を恨んで死んでいったのかも知れない、残念だと思う、だけど、それは父にも、母にもどうする事もできなかった運命だ、僕は、母に父の分まで愛情を注ぐ事が出来て満足ではあったけど、同時に、これでいいのか、とも思った、でもそれでいいのだ、父もどうしようもなかったし、兄もどうしようもなかった、母は最後まで愛を求めていた。

 愛なんて分からない、定義不可能だ、母が生前、嬉しそうにしてた瞬間や、どこか行きたいとこへ行った記憶とか、そんな、瞬間を僕らが覚えていればいいのかも知れない。

 父は、がん保険のために結構なお金を手に入れた、このまま死ぬまで悠々自適だろう、なかなかいいい人生だ、羨ましい、母の愛情の事をのぞいてはだけれど。


「食べ物と母」

 母は料理がうまかった、うまいというか、伝統的な母の味を継承してる感じだった、我の強い母は料理に自信を持ち、文句を言わせなかった、事実、母の料理はうまかった、文句など言う筋合いは無い。

 だけど、母の料理はいつも同じだった、祝い事の時は鳥の足の丸焼き、木曜日はきまってお好み焼き、日曜はオデンが多い、思春期の僕は、母の料理には飽きて来たのだと思う、冷えて臭いがする食べれるか限界のオデンを弁当箱につめられて、しかもオデンの汁が鞄に垂れている、ものすごく臭い、まずい、こんなもの食べ物じゃない、それでも、エサとして口につめていっていた、それは食事ではないと思う。

 大学に入学し、自炊ができる様になると、僕は思いっきり、自由に、今まで母が作ってくれなかった物を作った、一番憧れていた食べ物は、グラタンだった、グラタンを下宿で作って食べた時の幸せは今だ忘れられない、こんな食べ物があったのか!!そんな衝撃だ。僕は、下宿に友達を呼んでは、手料理を食べてもらってた、それは嬉しかったし、母の料理感から解放された気分だった。

 母が退院して体が以前の様に動かなくなってから、僕は、家族の料理担当となった、僕は母に教えてもらいながら、料理をした、楽しかった、料理は人の命をつなぐ大事な物だ、美味しくて食べた人が喜んでもらえたら、そりゃ嬉しい。

 母は僕の作るどんぶりがお気に入りだった、もう肉も食べられなくなって来た頃に、いつも僕に

「あの、美味しい、ちょっとぞうすい作って」

と言っていた、「ちょっとぞうすい」ではなく「どんぶり」なのは分かっていたのだ、だが、母の脳はすでにそんな事まで考えられなくなるまで衰弱していた、辛かった、でも、あえて否定などせず、僕は、エビ入りどんぶりを作って、母に食してもらった、母は喜んでいた、こんな親孝行は無い、僕は泣きたくなった。

 母の夢はなんだったのか今となっては分からないが、兄が結婚し、嫁を貰い、そのお嫁さんに、料理を教えたりするのが希望だったのではないか?けどそれは果たせず終わった、だげど、僕が変わりに母に料理を教えてもらったし、母も僕を嫁がわりに教えていたふしもあった、それはそれで良かったのかも知れない、今となっては、なのだけど。

 母が倒れて、僕に「あれ作って」といわれて、僕はエビどんぶりを作った、母はそれをほん少ししか口にする事が出来なかった、悲しかった、食が、僕らの運命、母の命をつないでいるのに、それが出来なくなるなんて、なんという残酷さだ、最後の日、日常と呼ばれる最後の日に、母はまた僕にこう言った「あれ作って」

 作るよ、僕の存在は作る事だ、僕は素早く、母の好物のジュースを作った、それは、母が食した、最後の食べ物だった、入院して3日目に、意識が麻痺する直前に母は、ジュースを飲み、そして「美味しい」と言った、母と僕との最後の会話だった、お母さんありがとう、と僕は思った、食というもの、人の命を支えるもの、それを馬鹿にしてはいけない。

 母はそのまま意識不明になり死んだ、僕は在りし日の母の料理を思い出す、母は古い人だったので、僕は反感を覚えつつ育った、僕が新しい料理に作ると、母は感心して、美味しい、美味しいといって食べてくれた、母と僕の確執は、料理を作る事によって排除され、そして愛が残った、食べる事、食べ物を作る事、その人に一日でも長く生きてもらいたいと、心をこめて料理を作る事、それでお互いが理解しあい、許せる関係になる、素晴らしい事だ、それを愛と呼ばずして何と呼ぶ、はっきり言いたい、料理は愛だ!

 うまいとかまずいじゃない、これだけは決して引けない、それが愛なんだよ。


「プールの事」

 小学生の夏、僕は友達とプールに行きたかった、だけど行けない理由があった、その頃僕の学校では、泳げる生徒にランクをつけていた。

 泳げない…赤ボン

 10メートル…黄ボン

 25メートル…青ボン

 50メートル…赤線一本

 100メートル…赤線2本

 200メートル…赤線3本

 といった階級が存在して、僕は青ボンだった、町民プールには、「赤線一本」の生徒しか入れてくれないのだ、はっきり言って泳げるかどうかなんて子供には関係ない、みんなと遊べるかというのが大事だった、結局僕以外の友達はみんな「赤線一本」(すごい名前だけど)だったので、プールに入れた、楽しそうだった、僕は泣き出して、職員は僕の母を電話で呼び出した。

 母は、日傘をさして迷惑そうにやって来た、それで遊んでいる僕を見つけて、こう、言った

「もう、必死で、きいきい言うまででかいで泳がんといけんがあ」

 母は何も分かってなかった、子供の僕は母親に連れられて帰るまで、辛い、辛い時間を過ごした、友達も迷惑そうだった、それ以来、というか、それ依然も、水泳を好きになる事はなかった。


「手癖が悪い話」

 僕は手癖が悪かった、祖母にあまやかされて育った僕は、祖母にお小遣いをもらって遊んでいた

その延長で、僕は、お金を盗む事を覚えた、金庫から一万円を盗む小学生、そんなのいるか、いますよ、僕です。

 お金が自由に使える子供には、友達がまとわりつきます、友情などかけらもない、そのためだけの友達、友達が作れない僕は、お金を使って、友達を作ろうとしました、それは、子供ならではの間違いでしたが、やがて、有るはずの金が無いと気付いた母が、僕に追求しました、「お金捕ってない?」まだ、罪悪感のあった子供時代の僕は土下座して謝りました、「ごめんなさい」すると、めったに帰ってこない僕の父親は僕を蹴り、僕は反省しました、翌日、母親が泣きながら僕を車にのせて、僕の首を閉めて殺そうとしました、すぐに諦めてもらって助かりました、あの時の本気の空気は子供ながらに強烈に覚えています、二人で死のうと言われて、雨の中、無言で車に乗ってました、母は僕を殺す勇気など持ってなかった様で、おかげで助かりました、だけど、あの時の本気の空気は、今も忘れられません。


「真夜中のジョギング」

 いつからか母と僕は夜中に走りはじめた、僕はなんで走らされるのかよく分からなかったけど、とりあえず従った、近くの大きな家にでっかいシェパードがいる、毎晩シェパードは、僕と母に向かって吠え続けた、それも柵から半分飛び出して、僕はいつかこの犬に噛まれるのではないかとビクビクしていた。田舎の夜は怖い、子供にはなおさら怖い、いつも、古い朽ちかけた公会堂の横にある首無し地蔵の群れが怖くて怖くてたまらなかった、なんでこんな怖い思いをして走らなければならないのだろうか?走ってもちっとも楽しくない、むしろ苦痛だ、気の弱い僕は、母にそんな本音を話す訳がなかった、真夜中のジョギングはいつのまにかやらなくなった、単に母親が飽きただけだった、あれはなんだったのだろう??


「最初の手術」

 最初の手術の時は、母親はまだまだ元気だった、彼女特有のバイタリティで、相部屋の人とはまたたくまに仲良くなり、お見舞いに来る友人も多かった。

 僕は、前日に尾道へ遊びに行ったりして、まだ、楽観していた、手術は8時間におよび、医者は、母の内臓の大半を削除した、これで、もう人並みの生活は送れない事になる、当然それは本人の承知のうえだ、僕は、切り取られた内臓をまじかに見た、なんがどう悪いのかわからなかった、これで直るならそれでいい、というくらいにしか考えてなかった。

 母親は、ICUにいて、麻酔が効いて眠っていた、翌日訪れると、もう5歳くらい老けてしまった様な弱々しい声で、それでも

「がんばれっ!がんばれっ!て言わんといけんがあ」

 と言っていた、実際僕は、母親は直ると思ってはいなかったが、でも、もう何年かは持つだろうとは思っていた。

 母親が病室を出るのはそれからしばらくしての事だ、入れ代わりに僕がリストラされ、入れ代わりに母親は再入院する、99年の年末は、いろんな事があった。


「リストラされた夜」

 僕は営業のMさんにひっつかれてチラシを制作していた、何回も何回もFAX校正を入れて、やっとオッケーが出て印刷された、だけど、年末の最後の仕事の日、印刷された期日に間違いがあると電話があった、営業のMさんは責了の原稿を捨ててしまっていたので全員で探した、それが無いとうちの責任になる、だが、見つからなかった、全社員が見守る中、Mさんは僕に打ち直しを命じた、僕には罪悪感などなかった、Mさんの言う通りにやったのに、ロボットの様に素直に従ったのに、何をしたと言うのだろう。

 ただ、僕は、事実上の上司に(といっても馬鹿のガキ)に嫌われていたため、彼としてはかっこうのチャンスだったのだろう、全て僕の罪にしてしまった、全社員が僕を中世の魔女の様に嫌悪し、僕は、何も反論する暇もなく、一方的に解雇された、くやしくて死にたかったが、死ぬ勇気もなかった、偉そうな現場の管理者に、

男なら辞表を提出しろ!

 と言われた、僕は何も悪い事なんかしていない、だが、彼は一方的に僕を嫌悪している、悲しかった、営業のMさんは泣きながら僕に謝ってくれた、辞めるなと叫んでくれた、でも、僕が全ての責任をとらざるえなかった、僕は社長を始めあらゆる人に嫌われてしまっていた、死にたかった。

 母親が入れ代わりに入院して、世の中の無常を知った、運の無いやつは死ぬ、それが分かってしまった。


「投癌剤」

 投癌剤治療が始まった、僕は毎日、お昼に病院に行き、母親の話し相手になっていた、それは、もう二十数年間も反目しあっていた親子関係を修復する、最後の手段であり、可能性であった、僕と母親は、じわりじわりと歩み寄り、そして許しあっていった、母親は以前の様な傍若無人さは皆無で、人の話をちゃんと聴く寛容さが出来ていた、それは単に、他者とのコミニュケーションのスピードが以前にくらべると低下した言うことかもしれなかった、結果的に母親と僕は友達になれた、母親の過去の話や、いろいろな体験を聴けたし、僕も母親のリクエストにしたがって、おみやげを持参した。 

 母親が欲しがっていたもの、それは、フルーツであり、煮物であり、または高級料理でであったりもした、僕は、女性のいない家庭をまかされ、料理の腕をあげていた、煮物も作り、和え物も作り、料理をする事で自分の存在をかろうじて保持していた、世間的には、僕は癌保険を食いつぶす道楽息子だ、だけど、僕には、誇りがあった、僕は、今、弱っている母親わ助けてあげられる、それは、どんな政治家よりも、どんなスポーツ選手より、素晴らしい事ではないのか!そういう自己満足だ。

 投癌剤が最も多く投与された時には、映子おばさんが面倒を看てくれた、母親はしゃべるのもやっとに衰弱し、僕は辛かった、おばさんは創価学会員であったが、僕の知ってる学会員とは違っていた、狂信的な学会員は弱った身内を知ると、走って飛んでやって来て、いかにもあたしがおがんでいるからあなたは助かるの!といった表情をしている、僕はそれを見破る能力を持っている、映子さんは、狂信的な学会員ではないと思いたい、僕はそう、信じたい!


「静かなる生活」

 退院した母親と二人の日々が続く、二人は二人三脚、うまいくらいに協力しあって静かなる、でも豊じょうな日々を過ごしたはずた、僕はそう思う、誰がなんと言ってもそうだ。  母は、もはや以前のトゲトゲしさはなく、自分のしたい事だけをして生活する様になった、以前の母は、全て自分が把握していなければいけない、全て自分の管轄下にないといけない、それが出来ないと容赦なくヒステリーを起こす、そんなタイプだった、ほっきり言う、そんな馬鹿女を僕は大嫌いだった、いや、過去形である、母はそういう風にしか生きられない人間だったのだ、本当は甘えてみたくなる時もあっただろう、だけど、彼女は誰にも何にも甘えなかった、不器用なのだ。

 母がブレーキをかけ忘れてトラックを落としてしまった時に僕はいた、その時の母はまるで子供の様に、少女の様に、無防備に助けを求めていた、信じられなかった、あの冷酷な鬼の様な母が、少女の様に、守ってあげなければと思うくらい無力な声を発していたのだ。

 「あーっ、あーっ」

 その頼りない声に父は惚れたのだろう、母は鬼ではなく少女だったのだ。


「母の夢」

 なぜだか全く寝つけない夜だった、扇風機をつけてないと暑いし、かといってエアコンをつけるほどおおげさな暑さではない、中途半端に寝苦しい夜、なんども寝たり起きたりをくり返して、もう朝方になろうとしていた、時計は5時を指していた。

 やっと寝れそうな気がしてきた、そんな時に見た短い夢。

 家の近くに少女がいて、気が強そうでみんなには嫌われている存在、僕と少女はなんとなくお互い気になっていたが、あまり親しくなるきっかけもなく、その少女はまわりでも煙たがられていた。

 少女にはなにか秘密があるのではないか?いつもピリピリしてみんなから孤立しているが、それには何かあると思う、そんな漠然とした考えを僕は持っていた。

 そんなある日、軒先きに一匹のカエルがいた、小さな凶暴な雰囲気のカエルで、カエルはどうやら、少女に魔法をかけているらしい、そのカエルさえ捕まえれば、少女の魔法は解かれて、そしてみんなと仲良くできるのではないか、僕はとっさにそう思った、そして、そのカエルを捕まえようとした、カエルはあっという間に姿を消した。

 何人かの人がやって来た時に、少女が息を切らせてやって来て

「カエル、カエル見なかった」

 と言う、凄く興奮している、回りの人は「またかよ」といったうんざりした表情、僕は

「見たよ!」

 と叫ぶ、少女が僕のそばに来たので

「カエルは、やっぱり怒ってたよ」

と言う、彼女はそのカエルを怒らせてしまったために、何らかの魔法をかけられ、みんなと孤立した性格になったのだ、そうに決まっている、と僕は思った。

 しばらくしてして、僕はその少女をみかける度に話かけたり、一緒に歩く様になった、軽い恋愛の様な感情かもしれない、そんなある日に、彼女はふいに評判の良くないグループに拉致され、バンの中に連れ込まれてレイプされそうになっていた、彼女は陵辱されているにもかかわらずキッとした表情で耐えている、妊娠しているのかお腹がふくらんでいた、彼女にかけた魔法は妊娠だったのかと僕は思った、けどそれは違っていた。

 彼女にかけられた魔法は、不治の病だったのだ、彼女が孤立して、いつも怒っていたのは、その病を自覚していた、そして、その病を直せる唯一の方法が、魔法をかけたカエルを探す事だったのだ。

 そうだったのか。

 彼女は病院で手術を受けている、内臓をとりだして洗っている、大変な手術のように見える、僕が病院にいくと、彼女は水をひしゃくですくってカメに入れているのだ、彼女は落ち着いた、ちょっと寂し気な声で、僕にこう言った

「見て、胃ガンにもなっちゃった、一回戻したのがダメだったのね」

 カメの中には白い胞子のようなものが浮かんでいて、それを彼女は癌細胞だと言う、悲しい声だった、自分の死を自覚している声だった

「カメがもう一杯になっちゃった」

 僕はカメの水を変えた、ぼくもひしゃくで水を入れるが、うまくいかない、お医者さんが現れたので変わってもらう。

 大きな応接室みたいなとこでパーティを行う、料理が運ばれ、知り合いが集まった、なぜかケーキが配られる、僕はケーキは嫌いなんだけどなあ、僕のとなりには母が座っていて、母は僕にしきりに話しかける、僕は母の命が長く無いという事を知っているので、とても辛い、母は、バンドをやってる僕の友人をさして髪型がどうのこうの言っている。母にもケーキが配られる、が、母のケーキだけなぜか青色だ、今日は母の誕生日なのかと思う、するとお坊さんが来られる、今日はお葬式だったのだ、庭に祭壇があり、母もそこにいる、自分のお葬式をぼんやり見ている、僕はこんな残酷なお葬式はないなあと思う。

 そこで目が覚めた、タイマーをかけていた扇風機が音も立てず止まった、時計は5時40分をさしていた、僅か40分の短い、断片的な夢だった。

 夢に出て来たエキセントリックな少女は間違い無く母だ、母は自分の死を遠からず自覚していたにもかかわらず、魔法をかけたカエルを探していた、カエルを見つければ全てがうまく行く、そう思っていたのかだろうか?病院で退屈そうにカメに水を入れる彼女、これは点滴と抗癌剤、病院での退屈さ、そして死を自覚した悲しい口調、間違い無く母だ、カエルも見つからず、自分の死を自覚した母が、僕にすがって一生懸命話しかける場面、どうしても辛くて笑顔で話せない僕、自分の死が信じられなくて葬式を傍観する母。

 なんて悲しい夢だ、こんな気持ちだったのか!そう思うと悲しくて悔しくて、もっと話せばよかった、もっと笑顔で話せばよかった。

 「カエルを見たよ」と僕が言う場面、そして始めて少女と心が通う場面、あの場面が一番好きだ。

 結局寝つけなかったのは、僕がこんな夢を見たのは、母が気持ちを伝えたかったからではないか?そんな気持ちにもなる、目が覚めた瞬間に、僕は「母が来たんだ」と思った、そう信じたい。

 そして僕はこの文を書いた。

 お母さんへ、つかの間の逢瀬だったけど、楽しかったです。


「母の夢・その2」

 家の前の庭に母親と葬列の人たちがいる、母親は僕に向かって笑いながら手をふりながら葬列の人たちと、(多分)あの世に向かって歩いていく、僕も笑顔で手をふっている。

 00/9/25日の夢日記より抜粋


 

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