NORTH WESTERN 社製
の100円マシン登場。

本機はコインメックの精度が当時としては優れものでした。
【NORTHー100型】マシン

・1965年(昭和40年)2月17日、(株式会社ペニイ商会)東京、台東区蔵前3丁目に間口2間、奥行き4間のささやかなスペースが誕生場所で
ありました。

・1966年(昭和41年)規模が大きくなり、近くの駒形2丁目(第5プラチナビル)に移転社名を株式会社ペニイ自動販売に変更、発足当時6名の社員が30名規模に増えました。自動販売機(以下VMと言います)は当時10円が主体で100%米国OAK社製のBIG/BOが主流、後にVIST形(10円)も導入され、やがてこれに取ってかわります

  

     
     【BIG-BOY】 【VISTA】 型 10円マシン  

 そもそも、この事業導入のきっかけは、故人である共同経営者(実兄)が米国へ小物雑貨を輸出していた事であります。玩具の蝶
ネクタイ・アンチモン製の人形(当時グロスTOYS)などが大量に売れたので、輸入先(ハードフィールドCOP)のMr.L.O.Hardmanへその利用をといあわせました。

 米国では当時30有余年の歴史が有り、BULK BENDER(バラ売の自動販売機)といわれスーパー、ドラッグストア、ボーリング場、遊園地などに数十万台が稼動していました。売価は1セント、5セント、10セント、25セントでしたが、1セントの売上が50%を占めていたうです。1セントは当時1ドル、360円の時代でしたから3円60銭。中身は今のようにカプセルなしで6号ホイール(商品を選別する部品、セレクター)が装着され、プラスチック製の小物(腰下げ、ペンダント、指輪等に加え、小指の先ほどの着色されたガムが混入していました.排出される玩具はバラバラでガムも混ざり、個数は限定されないものでした。後に6号カプセルがでましたが、かんばしく無かったのです。
 
 いかにも不衛生なものと感じられますが、米国では当時問題になりません。しかし、構造上で故障が多くサービスにてまどり、長径1インチの楕円カプセル(8号タイプ)が10円の主流になるのです。

・1970年に入り、100円VMが登場しました。先にお話したOAK社製のものを採用しましたがイマイチ性能がわるく、ノースウエスタン社製の採用に切り替えたのです。この機械はコインセレクター(お金を正貨とゴミとを選別できる)が精巧で今日も何処かで活躍していると聞いています。

・1976〜1970 の中身商品(カプセルに入る玩具)は99%香港製でした。先のMR.HARD MANがアメリカのオペレーターを引き払い、
香港にカプセル専門工場をオープンしたからです。そこから世界各地に輸出されたのです。


                      BIG-BOY      




           【導入後のエピソード】   
 

 
            ●アサヒグラフで火がつく!!                

 1965年(昭和40年)二月の創業時、月刊「アサヒグラフ」二月号に「飛び出す10円おもちゃ」という特集記事が掲載されました。グラビアカラーで
2ページ続きの数十種類の玩具写真、子供たちが文房具屋店頭に大勢あつまっている写真と記事(当社保存)でした。【 アサヒグラフ写真集】

 その後一月の間に北海道から沖縄まで全国から代理店の申し込みが殺到しました。設置先のフォローと地方発送で、てんてこ舞いが続きました。米国ロ
スアンジェルス・OAK社製のもので太平洋を"のこのこ"やってきて、横浜で通関手続き、注文から到着まで一月もかかるありさまでした。船もコンテナーで
なく「バラ積み」港湾荷役に時間をとられました。当時わが国も外貨不足で輸入するのにその都度外貨申請を通産省へ提出しなくてはなりません。許可(イン
ポートライセンス=IL)をもらい外為銀行に書類一式を出します。信用状(LC)を取組み、発注となります。通産省の出先機関(日比谷公園の付近と記憶して
いますが)の指定日には業者でごったがえし、ミスタイプでもあったらその場で訂正したりしましたが、"おおへい"な態度にあきれかえった次第です。


           
福岡市・東公園売店に設置されたBIG-BOY(10円)」自販機 新井 毅さん当時クインズ自販機(有)社長。

           ●贋金には泣かされました!!       
 
当時は今のようにスーパーなどほとんどありません。設置先といえば、小学校付近の文房具店や駄菓子屋程度で特に小学生低学年が使う
補助教材、プラスチック製10円玉、子供の名前が貼り付けられたものが、我が機械にぞろぞろ使われたから、たまったものでありません。
一年間の被害額は5ー60万円もありましたか。当時初任給が二万円台でしたから、かなりのダメージでした。
 ついに我慢ができず、造幣局に教材をみせ、贋通貨ではないかと抗議しましたが、お役人に言わせれば、通貨に関する法律
(太政官布告?)で、材質、色識別の特定以外、違反でないとの判断でありました。 納得できません〜〜〜〜、
その足で文部省初等中等教育課(正確ではないかも)の担当者に同様の抗議をしましたが、業者に指導するらしい雰囲気で
軽くあしらわれました。それが効いたか、この事件も次第に下火になりました。今日、韓国の500ウオン改造事件で当時の
にがい経験を思い起こしました。

 
        ●子供の「腕」が抜けない!!    
 
 おもちゃが"ころん"と出てくる(排出口)に手を入れて中身を取ろうとする幼児が居ます。これにはまいりました。なにせ「こけ猿の壷」よろしく、手をいれて、
中身をつかめば、当然、拳がつかえて腕が抜けなくなるのは当然。設置先のおばさんが、一大事発生とばかり当社へ緊急連絡と同時に「119番」へレスキュ
ウ隊がエンジンカッターで機械をばらばらに・・・・・・・。野次馬は集まるは、子供はおお泣きで周辺パニック状態、当社々員が到着したときは無残な機械の
スクラップが横たわるのみ。何故か当社員があちこちに"ぺこぺこ"頭を下げまわった記憶があります。


       ●10円玉・銀行受け取り拒否!!           
 
 最高で日に10円玉で100万円、十万枚を数える銀行はたまったものじゃ〜ありません。女子事務員が一日ががりで計算。コインの中には曲がった
ものや、マッチ棒等のクズが混じっていて、計算機がしばしば立ち往生・・・。ついに受け取り拒否通告、そこをなんとか説得・・・。小分けして数行に分散したこ
ともありました。
 店の集金はいまのように便利なハンディ型カウンターがなく、硬貨枡(カネマス)で勘定したものです。長方形の平板に100個の仕切りがあり、10円なら
1杯1000円、これで数万円勘定するには大変な忍耐が要ります。何杯勘定したか途中で忘れたら悲劇そのもの・・。初めからやり直し。1杯すくうたびに、
10円1枚を刎ねておき、最後にその枚数かける1000円とします。ところが、1個2個がころがり落ちたら、おお狂いが生じます。雨でも降ろうものなら、お金が
濡れて、皿にくっくやら、悪戦苦闘しました。

                                         
 黒の某玩具店は1回の集金が常時数万円あり、15%の手数料の戻しも大変です。駐車禁止で気がせくなか、手数料を100枚筒に捲くよう頼まれます。
往時の気持ちは今でもはっきりと記憶にあります。とにかく手間のかかる仕事でした。


                              to 奮闘記表紙   to その2