伊藤元治社長との出合い(No.1)


 昭和40年に蔵前三丁目に僅か10坪の店を開いた。蔵前通りと隅田川に挟まれた狭い通りに面していた。間口は二間と記憶している。たしか間向かえは十文字屋という食堂があった。駐車場所がなく、路上駐車で溢れかえっていたのだ。時々駐車違反にやられ罰金を払わされた。到着した荷物は開梱場所がなく、路上でやり、機械などはその場で車に積みこみ、明日の出勤のおり、設置して出社するありさまだった。退社途中で空の機械に補充する日々が続く。
 一年後、駒形のプラチナ第5ビルに移転した。1階30坪と地下があり、蔵前から比べると格段に広くなった。
 昭和41〜2年ごろに伊藤氏が入社したと記憶している。当時筆者は松戸の常盤平にいまして、水戸街道が通勤ラッシュがものすごいので、朝は星をみながら出社し7時前後に社のシャッターを開けるのが習慣だった。
 ある日、会社に着くと誰か居た、「おはよう御座います」と声を掛けられたので筆者も答えて、シャッターを開けた。その後は雑用に追われ、彼と話す機会は全くなかった。実兄(故人)が採用を決めたのだろう。このようなことはよくあったのだ。この僅かな出合いが歴史的運命を決めるとは夢にも思わなかった。
 あるとき実兄は「伊藤さんは客の後ろ姿に、頭を下げる人物だ」ともらしたことがある。

 次第にサービスエリアが関東一沿い拡大し、フォローの効率が悪くなりだした。そこで代行システムをとることになる。千葉方面、熱海・箱根方面、北関東方面(日光・足利)新潟(長岡、三条)等5ブロックに分割した。その中のひとりに伊藤氏がいたと記憶している。
 彼のシェア-には津田沼、君津、船橋のイトーヨーカドーが含まれていた。

 話は戻るが、イトーヨーカドーは昭和40年頃、北千住が1号店であって他2〜3店舗の構えであり、大型スーパーの幕開け時代といえる。本部は六本木だったと記憶しているが、筆者が全くの飛び込みで、取引口座の開設をお願いした。当時、今日のようなナンバーワンSCを誰が予想しただろうか。この取引契約がPENNYの将来を大きく成長に導いたことは疑いない。

 昭和56年6月頃、西日本ペニイ(有)資本金650万円とペニイ自動販売株式会社、資本金1200万円が対等合併した。
 ペニイの事務所は駒形にあったことは前述した。経費節約と駐車場問題などで、42年末に横浜市鶴見区駒岡に移転した。社長は実兄であったが、ウルトラマンフィーバーで予想外の利益をだし、後釜の専務に社長を譲りさっさと辞任してしまった。
これまでは別段問題があった訳ではなかったが、生きのいい状態の退社で何かと後継者のアラが目につき、任せる事に不安と焦慮観が鬱積していたのだろうと想像する。
 つまり、第2の社長(株主という意識)の影が常にあったことは事実だ。

 こんな時に合併話が持ち上がり、話がまとまった。
 それからというもの、筆者は岡山、横浜間を月に最低一回の往復が4年続いた。それだけだったら特段のことではないが、第2社長は、筆者の経営方針に満足せず、旧社長派を扇動するという、とんでもない事態が起こってしまったのだ。当然社員の士気は低下し業績は悪化してしまう。対策として資金の余裕が在る内に守旧派を全員退社させることにした。実兄の持ち株も買取り、組織の正常化を図ったが、最早、岡山と横浜の指揮をとることが極めて困難な事態に至ったのである。このころ、十二指腸潰瘍を患い始めた。ストレスからだろう。
               【現在のPENNY 横浜本社】
            ★かっての営業規模の10倍にまで成長している風景★
             
  

      このような事態で横浜を任せる人物は伊藤氏しかいなかった。
 彼は継承に悩んだに違いない。下手をすれば沈没の事態も予想され、火中の栗を拾うことになる。無理を承知で、お願いした上で昭和60年、西日本へ営業権譲渡を図り元に戻った。
 時代はゲーム機化が進んでいた。カプセルにヒット商品の無い中、小型ゲーム機をロケーションしだしたのも、このころからである。伊藤氏は既に代行時代に小型TVゲーム機を開発しヨーカドー等で好評をはくしていたが、実兄社長は面白くなく、苦々しく思っていた。しかし彼は十分なノウハウを蓄積していいたのには驚き先見性がここにもみられた。
 留守の間の西日本ペニイは、想像以上に荒れていたので、建て直しに没頭したが、平成元年12月胃癌の手術をし一命を取りとめたのもこの頃だった。
to Top